永楽帝が悪い


受験勉強の崩壊



科挙といえば、中国の国家登用試験だが、多分世界で一番難しい試験だった。なにせ10
浪、20浪は当たり前、70歳の定年年齢で合格しても、名誉なことで出身の県(日本と違って
かなり大きい)みんなから祝福されたし、末代までの名誉なのだ。そのような試験に法廷年齢
に最年少20歳で文天祥は合格。只の合格ではない。状元(じょうげん)つまり首席合格だ。
状元で合格すると、状元門という門が出身地に造られる。北京に行ったときガイドに「今でも
状元門はありますか」と聞いたところ、今でも残っているそうだ。文天祥は、文献では 状元 
文天祥という名刺を持っていたそうだ。文天祥はただ者ではなかった。宋の最後にフビライ
ら攻められ、徹底抗戦する。まさに「お国のために」しかし捕らわれるが、フビライにただなら
文天祥に驚嘆し、何度も自陣に招くが頑として聞かない。最後は投獄されそこで亡くなる。
ところが時代とともに科挙に受かっても「お国のため」を思わない合格者が蔓延し、宦官のみ
が皇帝ににつかえるという惨めな結果になる。ではなぜ科挙がうまくいかなくなったのだろうと
思うだろうが、私は、明の永楽帝が絶対悪いと思う。永楽帝の時代は「改革開放路線」を徹底
した。コロンブスより100年も早く宦官鄭和(ていわ)を使わし、エジプトまでの大航海をやって
いる。しかし、問題は科挙の試験科目をここからここまでと決め、書く文体も此と限定したた
め、勉強が出来るのしか合格しなくなった。今の日本の共通一次にしてからの官僚みたい
だ。過去を紐解くと、五歳で「千文字文」を読まされ、七歳で儒教の常套句の三字一句総数3
82句。字数が1146文字の「三字経」を読み。二桁の年齢になると、五言絶句、五言律詩、
七言絶句、七言律詩総数271首を諳んじ、いよいよ四書五経を覚えて、秀才(下級)、挙人
(中級)、進士(上級)の関門をくぐり抜ける。平成の文天祥よ出でよ!